歴史教育について思うこと

本日は「史の会」の会合に参加させていただきました。
「史の会」は保守系の会で歴史、教育、政治について提言などをまとめ行政に申し入れる活動等をしている。
参加された皆様と現在の教育・政治の問題点、今後どうあるべきについてなど議論いたしました。非常に有意義な時間でした。心から感謝申し上げます。

ここで私が歴史教育について思うことを述べたい。
我々の世代は「糸の切れた凧」のようだ。風が吹けばどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。自らがどこからきてどこへ行くのか考えることもほとんどない。
それは「連続性」を失っているからだと思う。

65年前の戦争から特に近現代史は反戦の旗印のもと、自虐史観ともいうべき自己否定を繰り返している。

人間は前向きでなければ生きてはいけない。この後ろ向きな自虐的歴史教育を直視することができない。よって、知ろうとすることをやめてしまう。

近現代史をほとんど勉強した記憶がない。この部分が抜け落ちているといえる。それより前の歴史を勉強しても連続していないためどこか違う国での出来事のように思えてしまう。

我々は生かされている。それは先人の努力や犠牲の上に成り立っている。しかし、現在の教育からそれを感じることはほとんどない。これで我々は未来のために努力し犠牲を払うことなどできるのだろうか。「今さえよければよい」というようになりはしないのだろうか。

物事はとらえ方によって見方は変わるもので歴史もしかりである。しようとさえすれば、近現代史についてももっと前向きにもっと肯定的にとらえることができる。

これが、未来のために「連続性」を取り戻すためのアプローチといえるのではないだろうか。

「今さえよければよい」という考えによる不具合は様々なところで表れておりもう待ったなしである。急がなけれならない。


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